9/12〜17BBSでも報告しましたが、12,13日のビルの連休を利用して夏休みを頂きました。子供も小さいし、グアムならば移動も短くてなんとかなるかも、と行ってきましたタモンビーチ。ところが、成田発午前便のため、前日に羽田まで行って家内の実家に泊まって車を借りて、、と計画していたのですが台風15号の関東直撃で成田で7時間も待たされるはめに。おまけに英佑の熱が下がったと思ったら龍弥が38℃の熱。当日の朝なんとか平熱になったので一応行ってみようということになる。待たされる間に成田空港クリニックで診てもらい、薬ももらっておいた。これが後々大きな意味を持つことに。イベントがあると必ず子供の具合が悪くなるというのが世の法則らしい。さらに搭乗ゲートが直前に変更になったらしく、5分前にうちだけ全く違うゲート付近のチャイルドルームにいて大慌て。またあのモノレールみたいなのに乗ってもう一度セキュリティーを通ってやっとゲートにたどりついた。9月11日コンチネンタル962便。
11日の夜、やっとグアムに到着。ホテルに入ってテレビをつけると何かライブで中継していた。気になって見ているとニューヨークのWTCだということがわかった。NHKも放送していたのでだんだん事態の深刻さがわかってきた。まさかこんなことが本当に起きるなんて!全ての人にとっては他人事ではなく、まさに「今そこにある危機」なんだ。絶対に事故ではないことはすぐにわかった。だってどんなにトラブルが起きたって普通パイロットは最悪でも市街地を避けて海上不時着を試みるものでしょう?テロリズムは断じて許されてはなりません。私達の生活すべては平和という大前提のもと成り立っていますが、それはとてももろく一瞬にして失われてしまうということがわかりました。大勢の日本人の方々も巻き添えになっただろうし、それこそイスラムも含めあらゆる国々の人々が犠牲になったことと思います。女性も子供も。心より御悔やみ申し上げます。またお客さまから頂いた数多くのメールの中にも知り合いが巻き添えになったという方もいらっしゃいますし、家内の友人で御主人の仕事でNY駐在中の「どんぐり」さんの御主人も大変危ない目に遭われたそうです。(リンクページでHPにリンクしています。)「もう二度と同じ気持ちでマンハッタンを歩けない、。」と彼女は書いています。自分には何ができるのだろう、、。
12,13日。タモンのメインストリートは悲劇もなかったように賑わっている。本当に渋谷か池袋にでもいるような感じ。日本人しかいない。ただ空港は完全に封鎖され復旧のメドも立っていないという情報はあって、皆延泊を余儀なくされている。漠然とした不安。
14日。朝から旅行会社にといあわせるが、オールフライトキャンセルだという。もうどうしようもないのでプールや海で時間を過ごすがアンダーソン基地からはひっきりなしに軍用機が飛んでいて、はっきりと普通の状態ではないことがわかる。沖合いには空母の姿も見えた。湾岸戦争の時もグアム便は飛んでいたので大丈夫というツアーデスクの言葉も空しい。
15日。JALが臨時便を出して12日帰国予定の人から順次飛んでいるらしい。だけど、コンチネンタルやノースウエストの米系エアラインは当初の15日予定の人を優先したらしい。臨時便はもちろん米本社が急きょ大掛かりなリストラを発表し、通常便も飛んでいない。残された我々は何のインフォメーションもなくただ待つのみ。来週再開のマーケットでの株暴落を恐れてのリストラだと思うが、全く人道を外れているとしか思えない。株価偏重のゆがんだ資本主義の縮図。さらにそのマーケットでテロリストが先物や高度なオプションを使って大儲けしたらしい。おかしいでしょう?
16日。だんだん人が少なくなってきた。DFSも数日前が嘘のようにがらんとしていて、早く閉めてしまった。ゴーストタウンのよう。ツアーデスクでは年輩の方達がなぜ飛んでいる飛行機があるのに帰れないのかとすごい剣幕で怒鳴っていて一時騒然としていた。どうやら職場に口実にして遊んでいると思われるのがいやなんだろうと思う。気持ちはわからないでもないが、ツアーデスクの人に言ったってどうしようもないのはわかっているはずなのに、、。
17日。今朝もやっぱりコンチからの情報はないという。子供達も疲労の色が強くなってきた。もちろん食事やその他生活面では快適だが、やはり自宅とはちがうし、持ってきたミルクがなくなって現地のスーパーで買ったミルクは口に合わず飲まないので、龍弥はずいぶんやせてしまった。延泊手続きを済ませたら突然電話がかかってきてJALに振り替えてなんとかシートがとれたという。やった!CNNでは昨夜からAMERICA'S
NEW WARという特集を初めたし、本格的にはじまりそうで焦っていた。乗ってしまえば3時間なのですぐに成田に着く。ほっとした。というさんざんな休暇でした。翌日戻るとメールが200件、メモが5メートルくらいつながっていた、、、。
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